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先月、アメリカでシニアネット前社長の
アン・リクソンに再会した。
前社長という意味は、彼女が昨年11月を最後に
シニアネットを去ったからだ。
日本では「シニアネット」という言葉は、
シニア向けのパソコン教室プラス交流組織の
一般名詞として使われている。
しかし、実はこの言葉は、
サンフランシスコに本部を置くシニア向け
パソコン教室ネットワークの登録商標である。
日本のいくつかの"シニアネット"は、
この本家をモデルにしている。
かつて私が、日米35社が参加した
スマートシニア・コンソーシアムを立ち上げたとき、
接触したいくつかの組織のうち、
真っ先に手を挙げてくれたのが、アン・リクソンだった。
シニアビジネスに関わる私のアメリカとの深い縁は、
彼女との出会いから始まったといってもよい。
シニアネットは、86年にサンフランシスコ大学での
実験プロジェクトから始まった。
当時はパソコン通信が普及し始めた頃である。
初めは、シニアがパソコン通信を通じて
積極的な活動をできないかと、
創業者のメリー・ファーロングを中心に取り組み始めた。
だが、まもなく、パソコン通信の前に、
パソコンそのものの利用者層を広げないと
話しにならないことに気がつき、
使い方を習得できるラーニングセンターの運営を始めた。
数年が経過し、ようやく事業が軌道に乗りかけた頃に、
突然創業者がNPOの運営に愛想を尽かし、代表を辞任。
代わりの男を連れてきたが、これがまったく機能せず、
シニアネットは創業以来の危機に陥った。
見かねたボードメンバーが、白羽の矢を立てたのが、
NPOの経営で実績のあったアン・リクソンだった。
アンが着任してからのシニアネットは大きく変わった。
ラーニングセンターを全米に300箇所以上立上げ、
インターネットのアカデミー賞と呼ばれたウェビー賞も受賞した。
ゴア元副大統領はじめ多くの政治家、首長から賞賛された。
だが、彼女の最大の功績は、
多くの異業種企業とのアライアンスを積極的に進め、
NPOと営利企業との新たな協働スタイルをつくりあげたことにある。
IBM、アドビ、マイクロソフト、チャールズ・シュワッブ、メトライフなど
錚々たる一流企業がシニアネットのパートナーとなった。
特に、IBMとの関係は深く、シニア向けのブラウザや
ディスプレイなどの共同開発をおこなっただけでなく、
IBMの退職者をボランティア・インストラクターとして
受け入れる仕組みをつくりあげた。
全米に4千人いるボランティア・インストラクターの
6割がIBMの退職者である。
IBMの退職者といっても、シニアネットに来るまで
パソコンを触ったことがないという人も多く、
シニアネットは、シニア向けのITリテラシー教育機関として
多大な貢献をおこなっているのである。
また、営利企業だけでなく、
市や郡などの自治体とのアライアンスも進めた。
サンノゼ市にあるラーニングセンターの建物は市からの無償貸与、
そこで使用するパソコン機器類の大半は、企業からの提供物。
こんな風にパートナーの力をフル活用し、
その代わりに受講者であるシニアの
経済的負担が軽くなるようにした。
今日のシニアネットの中興の祖はアンであるといって過言ではない。
なぜ、彼女は瀕死のシニアネットを再創造できたのか。
第一に、彼女はれっきとしたアントレプレナーである。
新しいアイデアをひねり出し、
その実行のための資金繰りをきちんとおこなう。
第二に、ビジネス・プロフェッショナルとしての基本ができている。
何をなすべきか明らかにした後、決めたゴールは必ず達成する。
第三に、ヒューマン・インターフェイスがよい。
言うべきことははっきり言うが、人を遠ざけない暖かさがある。
まとめれば、前任者と対照的な彼女の人間としての魅力が、
シニアネットを再生させたといえよう。
異業種企業とのアライアンスといっても、
人格のない法人どうしが結びつくわけではない。
結びつくのは、力のある個人どうしである。
IBMやチャールズ・シュワッブのトップが
シニアネットに資金を出したのは社会貢献のためではない。
究極「あの人だから一緒にやってもよい」 という世界があったからだ。
アン・リクソンの卓抜した経営センスと人間的魅力があればこそ、
NPOでは型破りな多くの異業種企業との
アライアンスができたのである。
異業種企業とのアライアンスを本物にしたいのなら、
まず、やるべきことは、自分が、個人として、人間として、
力をつける以外にない。
そのことを一人の女性アントレプレナーが無言で教えてくれた。
何度も来日経験のある彼女は日本が大好きである。
「いつかそう遠くないうちに、また日本に来たい」
そういって彼女は足早に新しい職場に戻った。
ただ、4年間勉強したという日本語はあまり上達していなかったようだ。
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